中国の東北地方で最も繁栄している大都市、遼寧省(りょうねいしょう)瀋陽市(しんようし)。中国の地名では、「陽」は「水の北」の意味で、「瀋陽」はつまり「瀋水(現在の渾河)の北」の意味です。この地名は、町の立地を示していますが、この町の長い歴史と深い意味は省略されています。瀋陽の別名、「盛京(せいけい)」と「奉天(ほうてん)」こそ、この町の歴史と祝福の意味合いを表しています。
「盛京」と「奉天」は、清王朝時代からつけた名前です。天命十年(1625年)、清の太祖ヌルハチは遼陽から瀋陽中衛に遷都し、この地で皇宮の修繕に着手し始めました。その皇宮は後の「瀋陽故宮」です。天聡八年(1634年)、清の太宗ホンタイジは瀋陽を「天眷(てんけん、天のお守りを授かる)盛京」と称し、後に「盛京」の名称が伝わりました。順治十四年(1657年)、「奉天承運(天命を奉り天運を承り)」の意味を込め、盛京に「奉天府」の行政区画が設置され、後に「奉天」の名称が伝わりました。
チベット仏教のラマ僧から見ると、「盛京」という名前は「蓮の花が咲き誇る境域」の意味があり、盛京と大清帝国は仏国土の意味と外観を持ち合わせています。つまり、盛京城は命名される当初から、チベット仏教の「仏教の弘通」の意味も込められています。その証左として、盛京城の組織構造が物語っています。
「一ノ宮、四ノ塔、七ノ寺」。これは盛京の主な組織構造です。「一ノ宮」とは瀋陽故宮で、「四ノ塔」とは東西南北の4つの方向に建てられた塔です。4つの塔のそばには寺院がそれぞれ1軒建てられています。東塔の永光寺、南塔の広慈寺、西塔の延寿寺、北塔の法輪寺、そして実勝寺と寺内の護法楼および御花園の長寧寺が合わさって「七ノ寺」となります。4つの塔が円となって実勝寺を囲み、一つの壇城となります。チベット仏教における壇城とは、仏様が密教の修行をする時に、魔物の群れの侵入を防ぐために建てられるものです。4つの塔が魔物を怖がらせ、清王朝の中核・故宮を守護する法器となっています。
崇徳元年(1636年)、清の太宗は盛京城で帝位につきました。モンゴルが清王朝に降伏し、モンゴルの聖物・マハガラ金仏を、伝国璽とともに、白のラクダに載せて、盛京城に謁見してきました。清太宗は、マハガラ金仏を供養するために、蓮華浄土実勝寺の建立を命令しました。これは清王朝史上最も歴史が長く、規格が高い皇家の寺院で、「盛京首刹(盛京城一のお寺)」と呼ばれます。皇家のお寺である実勝寺は、後に「皇寺」と呼ばれ続けます。
清王朝は建国当初から、チベット仏教に大きく助けられていました。清の太宗ホンタイジが盛京城を建設する当初から、相地術(風水)に長けたチベット仏教僧侶が盛京城を仏国土として建てようとしていました。清太宗はチベット仏教僧侶の進言を受け入れ、崇徳八年(1643年)3月、盛京城の四方の門、撫近門、徳勝門、懐遠門、地載門からそれぞれ5里(2,500メートル)離れた場所に、それぞれ同時に、1つの塔と1軒の寺を建築すると命令しました。すなわち、東塔には慧灯朗照永光寺(けいとうろうしょうえいこうじ)、南塔に普安衆庶広慈寺(ふあんしゅうしょこうじじ)、西塔に虔祝聖壽延寿寺(けんしゅくせいじゅえんじゅじ)、北塔に流通正法法輪寺(りゅうつうしょうぼうほうりんじ)です。順治二年(1645年)5月、4つの塔と4軒の寺が竣工し、実勝寺に所属する下院となります。清太宗の崩御後、清太宗の御花園は長寧寺に改築されました。こうして、マハガラ仏を供養し、皇寺と皇寺の護法楼を中枢とする盛京城の「四ノ塔、七ノ寺」の壇城構造が、正式的に完成しました。
壇城とはすなわち「曼荼羅」の事で、古代インドでは国の領土と神様を奉る祭壇の事を指します。紀元7世紀、仏教はチベットに伝わり、チベットの王であるソンツェン・ガンポがトゥルナン寺(大昭寺)を建設する時に、初めて曼荼羅の概念を応用しました。紀元8世紀、インドの密教のパドマサンバヴァ大師も、チベット初の「仏・法・僧」の三宝が揃った寺院・サムイェー寺の建築設計にも、曼荼羅の概念を応用しました。さらに、元王朝期、チベット仏教の僧侶が涼州城の外の東西南北の四方向にそれぞれラマ寺院と仏塔を1軒ずつ建設し、涼州城とともに曼荼羅を形成しました。ここからも、古来から曼荼羅の概念が都市建設に応用されていたことが分かります。
そして盛京城は、清王朝の初の壇城様式の首都であり、清王朝の建国皇帝たちの仏への信仰心が体現されています。国民を守護する東西南北の4つの塔と4軒の寺には、清太宗の「国に奉仕し、民を安らぎ、五つの福来る」という信念をうかがえます。特に4つの塔の竣工後、チベット仏教の僧侶は盛大な式典を開き、北塔から時計廻りに、4つの塔を開眼(かいげん)し、金剛力士のご加護を祈りました。このような盛京城に生活する人々は自然と仏法の感化と護法神のご加護を受けていたのです。
漢民族にとって、清王朝は異民族による統治が最も長かった王朝でした。それは清王朝の皇帝たちの高度な漢化政策にも起因しますが、仏教への信仰も大きくかかわっています。清王朝の創立当初のチベット仏教への信仰は、中国内陸における大乗仏教とほぼ同じレベルでした。これは文化的にも清王朝の統治を強化しました。つまり、清王朝の統治はチベット仏教に大きく助けられていました。さらに、清王朝の皇帝は「天子は天命を授かる」という漢民族の信仰をも取り入れ、盛京城に「奉天」という名前を付けました。これは天命を奉り、天運を承り、中華の大地を統治するという清王朝の皇帝の意思を表しています。
時が流れ、清王朝が滅亡し、中華民国の時代になっても「盛京」と「奉天」という名前が引き続き用いられました。しかし、中国共産党(以下、中共)が中国の統治権を強奪してからは、その2つの名前が使用されなくなりました。「瀋陽」という立地を示す名前が使われ、神様の祝福と住民たちの信仰心は引き裂かれてしまいました。そして中共の政治運動や壊滅的な建設により、4つの塔と4つの寺もバラバラになりました。東塔の永光寺は永遠に消えてしまいました。西塔の延寿寺は1968年に解体され、1998年に再建されました。しかし、中共は寺を解体して再建しても、それはただの空き殻にすぎないから、瀋陽で暮らす人々は仏のご加護を受けられなくなりました。
瀋陽は都市としての歴史は長いのですが、首都としての歴史は決して長くありませんでした。清王朝においても、盛京が首都だったのは十年程度で、北京に遷都してからは副都とされました。それでも、清王朝の発祥地として尊重され続けてきました。特に壇城構造の首都は、中国史上でも唯一無二な存在でした。神仏を敬う清太宗の深謀遠慮は、瀋陽人として、とても誇りに思います。そして信仰を持つ者としては、仏法の感化を受け続けている町は大変貴重だと感じます。数百年もの仏法の感化は、瀋陽の人々の心に種をまき、いずれ花を咲かせ、仏法への信心を呼び覚ますでしょう。
(翻訳・常夏)