前非を悔い改めて、人格者になる
明王朝の時代、山右の地に伍千筋という人がいました。伍千筋は力強くて勇ましく、普段から武術を習練していました。自分の意にそぐわなければすぐさま相手を殴ったり、他人の物を奪ったり、他人のお金を借りっぱなししたりしていた伍千筋は、人々に恐れてられていました。
ある炎天下の日、伍千筋は涼を取るために城楼に上がりました。城楼にいた数人が伍を見て、他の所へ逃げて行きましたが、ただ一人の老人が動じずに座っていました。
「お前、みんなが逃げたのに、まだ動かないのか?俺をなめてんのか?」と威張った伍千筋に、老人はこう語りました。
「君はまだ悟らないのかね。君の父母は、国と国の人にとって有用な人材になってほしいから、君を大人に育てた。武術を身に付けている君は、国に奉仕しようともせず、ただのならず者として満足している。この国に有用な人材が一人少なくなったことは、君の父母もあの世で悲しむだろう。残念!残念だ!」と言った。
老人の話を聞いた伍千筋は、とても恥ずかしく、涙を流した。「私はずっと悪い人だと言われてきたから、自分もそう信じていました。今、あなたのお話しを聞いたら、まるで晨鐘暮鼓を聞いたようで、私は目を覚ましました。しかし、私は悪い人として生きた時間が長すぎて、あの三日月のように、いざ欠けたら、満ちていくのが難しいでしょう。今更改心しても、良い人になれるのでしょうか?」
老人は「もし君が心底から思い直し、自分の身を修め、善行を行うようにと努力すると、きっと賢者にもなれるだろう!」と語った。
その後、伍千筋は悪事をせず、悔い改めて、国のために軍隊に入り、やがて副元帥になりました。彼は軍隊を厳正に治め、民を我が子のように愛し、人々から称賛されました。
謙虚に善行を積み、科挙に合格
こちらもまた明王朝の時代のお話です。
江陰県人の張畏岩は博学多才で、その文才は学者の間にとても有名でした。甲午年(西暦1594年)、張畏岩は南京で郷試に参加しましたが、結果発表の時、自分が落第したのを知りました。
「この節穴どもが!」と試験官を罵倒している張畏岩が、道端で自分を微笑んで見つめていた道士を見かけて、さらに腹を立て、その道士に八つ当たりをしました。
「あなたの文章は決して佳作ではないから」と言った道士に、張畏岩はすごく怒って、「私の文章を読んでもいないのに、何を言いやがる!」と怒鳴りました。
道士は、「文章を書くには、穏やかな気持ちが大切だと聞いています。あなたは荒々しい声で罵り、不満で不穏な気持ちでいっぱいで、いい文章が書けるわけがありません」と答えました。
張畏岩は、道士の話に一理があると思い、態度を改め、道士に助言を求めました。すると道士は、「功名はすべて運命に定められています。あなたの運命にその功名がなければ、どれほどの佳作でも、合格にならないのです」と言いました。
張畏岩は、「運命は変えられるものですか?」と聞きました。
道士は、「運命を決めるのは天ですが、運命を全うのが自分です。善行をよく行い徳を積めば、どんな福でも自然に訪れます」と答えました。
張畏岩は、「私はただ、一人の貧しい学者で、何ができるのでしょうか?」と聞きました。
道士は「善行や陰徳はすべて、自分の心によります。常に善の心を持つこと自体が功徳無量なことです。例えば、謙虚という美徳は、何の苦労もせずにすぐできることなのに、あなたはなぜ反省もせず、試験官を責めるのでしょう?」と答えました。
張畏岩ははっと気がつきました。以来、張畏岩は日々謙虚に身を保ち、善行をよく行い徳を積み、文書力の向上もとても成長しました。
丁酉年(西暦1597年)のある夜、張畏岩は夢を見ました。夢の中で、張畏岩は科挙試験合格者名簿を見かけて、そのリストには空いている行が多かったことに気づきました。そばにいた人に「これが今回の科挙試験合格者の名簿だ」と言われた張畏岩は、「なぜこんなに多くの名前が抜けているのですか?」と聞きました。
その人が「科挙試験は、冥界で3年に1度、評価を行う。道徳に過失のない者だけを合格させる。あの抜けているのは、合格できたはずなのに、3年以内に道徳上の過失により除名された」と答えて、一つの空行を指さしながら、張畏岩に対して「君はこの3年間、日々謙虚に身を保ち続けたから、この行を埋めるべきかもだ。お励みを!」と言いました。
同年の科挙で、張畏岩は105位の成績で、念願の合格を果たしました。
(翻訳・心静)
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