宮島行きフェリー乗り場前 「舞楽・蘭陵王」の像(Gisling, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

一、雅楽の「蘭陵王入陣曲」

 「蘭陵王(らんりょうおう)入陣曲」は、日本の雅楽の曲目の一つです。管絃にも舞楽にも奏され、短縮して「陵王」とも呼ばれています。管絃演奏時には「蘭陵王」、舞楽演奏時には「陵王」と表されています。

 「蘭陵王入陣曲」(以下「蘭陵王」)は、1500年前の中国南北朝時代、北朝の北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ曲目です。唐代の『教坊記(きょうぼうき)』※1には、「蘭陵王」は南北朝時代末期の北斉に成立し、唐の時に盛んに演奏されたと記されています。

 「蘭陵王」は遣唐使によって伝えられたとも言われ、又、僧・仏哲(ぶってつ)※2が日本に伝えたとも言われています。伝来した「蘭陵王」は日本の雅楽に吸収され、舞楽の曲目として伝えられました。それは、祭祀や法会、そして、貴族の饗宴に用いられるようになり、現在でも雅楽の演目として愛され、演じ続けられています。

二、「蘭陵王入陣曲」の由来

 蘭陵王は、歴史上の実在した人物で、本名を高長恭といい、南北朝時代の北斉の皇族です。蘭陵王はがっちりとした体格の持ち主で、その性格は勇猛果敢で、顔立ちの美しい人でした。だから彼は敵を威圧するため、いつも獰猛な仮面を付け、美貌を隠して戦いに挑んでいたそうです。

 その中でも有名なのが「邙山の戦い」※3でした。

 564年、北斉は隣国・北周の10万の軍隊に攻められ、洛陽城が包囲されました。蘭陵王は洛陽の救援に向かいましたが、なかなか北周の軍を崩すことができませんでした。そこで、蘭陵王は中軍の500騎を率いて、他の将軍と一緒に北周の軍を三方から襲激したことで北斉軍が好転し、敵陣を破ったのです。

 蘭陵王は真っ先に洛陽城西北角の金墉城の下に辿り着きましたが、防戦に精一杯な城内の兵は、蘭陵王の率いる部隊が味方かどうか分からず、敵の策謀ではないかと疑い、城門を開けてくれませんでした。そこで蘭陵王が兜を脱いで素顔をさらしたところ、味方であることを知った北斉の兵士は士気高揚し、城門を開け、北周軍の包囲を破り、大きな勝利を収めました。

 邙山の戦いで見事に勝利した蘭陵王の英姿をモチーフに、北斉の兵士たちは「蘭陵王入陣曲」を作り、彼の戦いの様子を再現しました。

 その後、「蘭陵王入陣曲」は唐代に継承され、唐の宮廷音楽に吸収されました。仮面をかぶり戦いに赴く蘭陵王の舞は唐代に於いて、宮廷から民間まで広く演じられました。

北斉と北周・陳・後梁(The original uploader was 俊武 at Japanese Wikipedia., CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

三、中国で廃絶した「蘭陵王入陣曲」は日本で継承されている

 『蘭陵王』は唐の時代日本に伝わり、雅楽の演目として取り入れられ、1000年もの間、脈々と受け継がれて来ました。

 一方、中国では王朝の交代により、楽人が四散し、芸能形態も変化し、かつて唐代文化の代表ともなった宮廷音楽が伝承されなくなりました。「蘭陵王」は宋代まで伝えられたことが確認できますが、その後、「蘭陵王」は中国で姿を消してしまいました。

 話によると、1950年代初期、中国の著名な京劇の俳優・李少春が訪日の際、日本で「蘭陵王」が演じられているのを見て大変驚き、「中国の古代音楽と舞踊が、まさか日本で継承されていたとは」と感慨深げに言ったそうです。

 日本の雅楽は重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産(2007年)に認定されています。

舞楽「陵王」(YouTube動画):

https://youtu.be/KG9efSXLGDw

※1 唐代の教坊の記録で、著者は唐の崔令欽である。唐の玄宗在位期(712~756) に成立。

※2 林邑国 (ベトナム南部) の僧で、天平8 (736) 年に来日した。東大寺大仏開眼供養では楽師をつとめ、菩薩舞,抜頭舞,林邑楽を伝えたと言われる。

※3 ここでは東魏と西魏の間で起こった邙山の戦い(543年)ではなく、北斉と北周の間で起こった邙山の戦い(564年)のことを指す。

(文・一心)