能作品の能楽作品テンプレート用イメージ(Toto-tarou, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

一、能の演目「石橋」に登場する寂照

 日本の伝統芸能である「能」に、「石橋(しゃっきょう)」という演目があります。そのあらすじは以下となっています。

 「日本から宋に渡り、中国で仏跡を巡る旅を続ける寂照(じゃくちょう)法師は、中国の清涼山(五台山)で不思議な石橋の前に行きました。すると、1人の樵の少年が現れ、寂照法師と言葉を交わし、橋の向こうは文殊菩薩の浄土であること、この橋は狭く長く、深い谷に掛かり、人が容易に渡れるものではないことを言い、そして、ここで待てば奇瑞を見るだろうと告げ、姿を消しました。

 寂照法師がしばらく待っていると、石橋の上に文殊菩薩の使いで、伝説上の霊獣・獅子が現れ、咲き乱れた牡丹の花に戯れつつ、雄壮な獅子舞を披露しました。これが文殊菩薩の霊験でした」

「石橋」という演目に登場した寂照法師(962頃~1034)は実在した人物で、俗名は大江定基(おおえのさだもと)と言います。日本から宋に渡った平安時代の僧侶です。

二、出家と入宋

 大江定基は参議大江斉光[※1]の息子で、早くから家業である官吏を務め、三河守に任じられました。ところが、任地で愛妾の死に遭い、悲嘆のあまり無常を痛感したため、深く道心をおこし、988年(永延2)に出家し、法名を寂照としました。寂照と名を改めた定基は、寂心(高名な漢詩人・慶滋保胤、931頃~1002)を師としました。

 師が亡くなった後、長保5年(1003)の8月、寂照は弟子7人と共に九州を出発し、入宋しました。源信[※2]から託された「天台宗疑問27条」を、宋代の天台の碩学、四明知礼(しめいちれい 960―1028)に提示して答釈を求め、また、景徳元年(1004)に、宋の真宗皇帝に謁見し、筆談で会話を行い、真宗より紫衣を賜り、「円通大師」を贈られました。

 寂照らは五台山の巡礼を終え、知礼から「天台宗疑問27条」への回答とその解釈を得て、これを持って帰国しようとしたところ、当時の三司使、後に宋の宰相になった丁謂(ていい)より引き留められ、蘇州の呉門寺に留まりました。

 宋に滞在中、寂照は藤原道長ら日本の貴族、文人と書状を交わし、中国の天台山の大慈寺の再建のため、道長を始めとする貴顕たちから募金を集め、中国から日本に『五臣注文選』と『白氏文集』などを贈りました。そして、寂照は蘇州の報恩寺の内で普門院という堂を建立し、ここから人々の信仰の輪が広がり、寺はやがて広大な寺院となったそうです。

 寂照は在宋30年間、ついに日本に帰国する事がないまま、宋の景祐元年(1034)に73歳でその生涯を閉じました。

 1974年の夏、中国蘇州濂渓坊(れんけいぼう)より出土した明代の石碑(蘇州碑刻博物館蔵)「普門禅寺記」に、宋代に止住した「日本僧寂照」の消息が刻まれていました。寂照は日宋の文化交流に大きな足跡を残しました。

三、「石橋」から想起したこと

 能の演目・「石橋」の話に戻りたいと思います。

 寂照が五台山を巡礼する途中に、目の前に突然石橋が現れました。その石橋は人工的なものではなく、自然に出現したものでした。橋は幅が1尺(約30cm)にも満たず、長さが3丈(約10m)もあり、橋に苔が生え、ヌメヌメとして滑りやすく、下の谷までの高さは千丈(3km以上)にも及ぶとても恐ろしい場所でした。しかし、この渡れそうもない橋を渡ると、文殊菩薩の浄土に辿り着くことができると言います。

 修行の道は大変厳しく、険しいものだと言われています。修行僧は目の前に現れる数々の関門を通り抜けなければならず、百折不撓(ひゃくせつふとう)の精神を持っていなければ、成功などできないでしょう。幾多の苦難を乗り越え、天竺に経典を求めた三蔵法師はその良い例だと言えます。

 しかし、修行僧が乗り越えられそうもない困難を前にして、固い信念をもち、本当にやり遂げることができれば、必ず神様から加護を頂き、眼前に新たな世界が開けるとも言われています。石橋を渡ろうとする寂照の揺るぎない心が文殊菩薩に認められたからこそ、霊獣の獅子が勇壮な舞を見せてくれたのではないでしょうか? 

 海を渡り、最後まで帰国することのなかった天台僧・寂照は今も人々に讃えられています。

能❖「石橋」ダイジェスト❖日本の伝統芸能(YouTube動画):

https://www.youtube.com/watch?v=oxb16OKlpOs

[※1]大江斉光(934~87) 平安時代中期の公卿。中納言・ 大江維時の次男。官位は正三位・参議である。
[※2] 源信 平安時代中期の天台宗の僧。浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信大師と尊称される。

(文・一心)