隠元隆琦氏(1592年―1673年)とインゲン豆(看中国/Vision Times Japan)

隠元隆琦の来日

 隠元隆琦(いんげんりゅうき、1592―1673年)は、中国明朝時代の臨済宗(禅宗の一つ)を代表する僧侶で、俗名を林曽炳と言い、福建省福州府福清県の出身です。

 江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に来日していた興福寺住持の逸然性融(いつねん しょうゆう)[※1]が、当時、福建省黄檗山萬福寺で住持をしていた隠元禅師を日本に招請しました。当初、隠元は弟子を派遣しましたが、途中で船が座礁して客死したため、止むを得ず自ら20人ほどの弟子を率いて、承応3年(1654年)7月5日の夜に長崎へ来港しました。その時、隠元は63歳でした。

 隠元の素晴らしい説法と親しみやすい人柄に惹かれ、隠元が入った興福寺には、道俗が雲集し、活況を呈しました。

 隠元は、当初、日本に3年間滞在する、という約束でしたが、日本の弟子や信奉者は隠元に日本に留まるよう強く希望しました。そして、万治元年(1658年)には、隠元は江戸幕府4代将軍・徳川家綱と会見し、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、結局、帰国を思いとどまり、日本に永住することに決めました。

 寛文元年(1661年)、隠元は京都の宇治で故郷の寺と同じ名の黄檗山萬福寺を開きました。萬福寺の建物は明代末期頃の様式で造られ、建築材も南アジアや東南アジア原産の材料を使用しているそうです。

 その後、隠元は、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人、各地の大名、多くの商人らからの帰依を受け、黄檗宗の教えを広げました。

インゲン豆、普茶料理と煎茶道

 隠元は、禅文化を日本に伝えると共に、インゲン豆、孟宗竹(たけのこ)、西瓜、蓮根など、様々な品を日本へもたらしました。

 インゲン豆はアメリカ大陸からヨーロッパを経由して中国に伝わり、隠元が来日した際、日本に持ち込みました。そのことから、「隠元」という名が付いて、「インゲン豆」と呼ばれるようになったそうです。

 また、隠元は「普茶」といわれる精進料理も伝えました。普茶料理は植物油とくず粉を多く使用し、濃厚な味わいで、薬膳に通じる医食同源の料理でもあるとも言われています。

普茶料理の例(hakuunan, Public domain, via Wikimedia Commons)

 「普茶」は「普(あまね)く衆人に茶を施す」、或いは「茶礼に赴く」という意味があるとされ、茶による接待のことを言います。基本的に一つの長方形の座卓を4人で囲み、一品ずつの大皿料理を分け合って食べるという様式を取っています。

『普茶料理抄』に掲載の配膳方法の説明図(Ichiroemon Nishimura 西村市郎右衛門, Public domain, via Wikimedia Commons)

 他に、隠元は日本における煎茶道の開祖ともされています。煎茶道は、抹茶道とは異なり、急須等を用いて煎茶や玉露などの茶葉を使う茶道です。現在も全日本煎茶道連盟の事務局は京都の黄檗山萬福寺内に置かれているそうです。

萬福寺内の売茶堂(Opqr, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 隠元が日本に持ち込んだものは、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理など、多岐にわたり、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ぼしました。

 行と徳を積んだ隠元は、寛文13年(1673年)4月2日に後水尾法皇から「大光普照国師」号を特諡されたその翌日、82歳で示寂しました。

 1917年(大正6年)には大正天皇から大師号(真空大師)を追贈されています。

[※1]逸然性融(1601年〜1668年)は、中国明末に日本に渡来した僧で、俗姓は李氏。

(文・一心)