1989年の「六四天安門」事件で、中国共産党からの銃撃命令を拒否した元第38集団軍司令官の徐勤先氏が85歳で亡くなりました。メディアの報道によると、中国共産党当局は、徐勤先氏が死ぬまで監視していたといいます。
香港ラジオ局によると、1月8日午前、1989年の「六四天安門」事件で共産党第38集団軍の司令官を務めた徐勤先氏が河北省石家荘市で85歳で死去しました。徐勤先氏は、重い眼病で身動き不便だったため、長期にわたり石家庄病院で寝たきり状態で治療を受けていました。しかし、中国共産党当局は徐勤先氏を監視し、病院への来院者を厳しく制限し、写真やビデオの撮影を禁止していました。
公表情報によると、徐勤先氏は1935年8月生まれで、中国軍の少将で、元陸軍第38集団軍司令官。1989年に中国共産党中央軍事委員会の鄧小平主席(当時)が署名した天安門掃討作戦のための北京への兵力動員命令を実行することを拒否したため、中国共産党の党籍剥奪処分を受け、共産党軍事法廷から秦城刑務所で5年の懲役刑を言い渡されました。
香港の「アップルデイリー」は、1989年の「六四天安門」事件の学生抗議運動期間中に、軍事命令の実行を拒否したことについて言及した際、徐勤先氏は「殺されても歴史の罪人にはなりたくません!」と発言したと報じています。
(翻訳・藍彧)