京都の清涼寺にある釈迦堂(KimonBerlin, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

 一、清凉寺の国宝釈迦如来立像

 京都の清涼寺にある国宝釈迦如来像は、平安時代中期の東大寺の僧・奝然(ちょうねん、938年〜1016年、俗姓秦氏)が、宋に留学した際に、インドから渡った生身の釈迦像を仏師に模刻させ、987年に日本へ持ち帰ったものです。この釈迦像は、高さ160センチメートルで、釈迦37歳の生きた姿を刻んだものだと言われ、インド、中国、日本へと伝えられた三国伝来の大変貴重な仏像です。

京都の清涼寺にある国宝木造釈迦如来立像(Public domain, via Wikimedia Commons)

 元となった釈迦像は、紀元前6世紀に、インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に、栴檀の木で作った釈迦と等身大のもので、のちに鳩摩羅什三蔵(くまらじゅう 344年~413年)によって中国にもたらされたと伝えられています。宋に渡った奝然は、インド伝来の「生身の釈迦像」にめぐり逢い、心を打たれ、仏の真容を是非日本に伝えたいと思い、中国で釈迦像を模刻させました。奝然が作らせた釈迦像は魏氏桜桃(ぎしおうとう)という中国産のサクラ科の木が使われ、背刳蓋板に作者の張延皎、延襲の兄弟銘が入っています。

 二、宋太宗から厚遇を受けた奝然

 遣唐使が廃止されてからおよそ100年後の983年8月1日に、奝然が弟子と共に、宋の商船に便乗して、中国へ向かうため、九州を出発しました。

 8月18日に中国に到着した奝然らは、天台山を巡礼し、蘇州・楊州などの都会を経て、12月19日、宋の首都・開封に入りました。そこで奝然らは宋太宗から国賓としての厚遇を受けました。

 奝然は宋太宗に日本の『職員令』や『日本年代記』を献上し、また、中国で既に散逸した『孝経』、『越王孝経新義第十五』などの中国の古典も献上しました。これに喜んだ太宗は、日本の政治や歴史について尋ねると、奝然は筆談で漢文をスラスラと書いて答えたそうです。太宗は奝然に当時、僧侶に与える最高栄誉である「紫衣」と、「法済大師」の称号と、宋版『大蔵経』五千四十七巻などを与え、奝然の五台山参詣の便宜を図ったそうです。

 986年(987年の説もある)に、奝然は帰国しました。模刻した釈迦如来像の他、五千四十七巻の『大蔵経』(現存せず)、十六羅漢画(国宝)、五台山文珠画像(現存せず)等も請来しました。

 987年、請来した釈迦如来立像は京都上品蓮台寺に一時安置されました。その後、嵯峨で清涼寺が建立され、奝然没後に完成した清涼寺に遷されました。

 三、釈迦像の体内の「五臓六腑」を発見

 1954年(昭和28年)、釈迦像を調査したところ、内部から造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画など多くの「納入品」が発見されました。中には、絹で作られた五臓六腑の模型が納められていることが分かり、世間を驚かせました。

 これらの臓器の模型は台州妙善寺(浙江省)の尼僧らが、色彩のある絹を使って作ったもので、その五臓六腑には、「雍熙(ようき)2年」(985年)とう宋の年号が書かれており、人体の臓器の位置に納められていました。五臓六腑の形と配置は正確で、1000年以上も前の中国の医学知識を知る上でとても貴重な資料となり、現存する世界最古の内臓模型ともされています。

 ちなみに、伝統中国医学で言う「五臓六腑」は現代医学における解剖学の知見とは異なり、陰陽五行説によって解釈されており、中国最古の医学書とされる『黄帝内経』に紹介されています。

 1000年前、日本僧の奝然の発願により、中国の仏師によって彫られ、尼僧らによって五臓六腑を「施入」された大変貴重なこの釈迦像は、現在、日本の国宝として清凉寺で拝まれています。

(文・一心)