『蒙古襲来絵詞』後巻、絵十七(震天動地, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の二回の蒙古襲来の後、元(げん)と日本の間に、私的な商船の往来があるものの、正式な外交関係はなく、敵対関係が続いていました。

 このような厳しい状況の中、中国大陸から日本へ意外にも仏教が伝来し、禅宗の新しい風が吹きました。それは元の使者として来日した中国の臨済宗の高僧・一山一寧(いっさん いちねい、1247年〜1317年)によるものでした。

 鎌倉幕府に疑われ、一時幽閉をもされた一山一寧は、その後、建長寺・円覚寺・南禅寺を歴住し、日本の五山文学隆盛の糸口を作り、朱子学にも大きな功績を残しました。

『雪夜作』正和4年(1315年) 建仁寺蔵(Yishan Yining (一山一宁), Public domain, via Wikimedia Commons)

 元軍の二度の遠征が大敗した後、元は使者を派遣して日本と交渉を進めようと試みました。当時、日本では臨済禅が興隆し、禅僧を尊ぶ気風があったため、1294年、世祖フビライの後を継いだ成宗は、普陀山観音寺の住職をしていた一山一寧に「妙慈弘済大師」の大師号を贈り、彼を使僧として日本に送り込むことに決定しました。

 1299年の秋、ようやく日本に辿り着いた一寧らは、元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈しましたが、元軍の再来を警戒した鎌倉幕府は、一寧らの真意を疑い、彼らに対する対処の仕方を議論しました。

 「敵の使者だから、殺すべきだ」と言う意見もあれば、「僧侶の姿をしているから、まず伊豆の修善寺に留め置こう」という意見もあり、また、「仏道の徳を備えた人は元の国に居れば、元の福田であるが、我が国に居れば我が国の福田になる」と言う人もいました。その結果、一寧は伊豆修善寺に幽閉されました。

 その後、一寧が高名な禅僧だと分かった貞時は、ほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移しました。幽閉を解かれた後、一寧の名望に慕い、多くの僧俗が連日のように彼の草庵を訪れました。その光景を見た貞時は疑念を晴らし、正安元年(1299年)12月7日、一寧を建長寺の住職として迎え、自らも帰依しました。

 その後、一寧は円覚寺、浄智寺の住職を歴任し、1313年には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となり、後宇多上皇や六条有房らの帰依を受けました。

 一寧の弟子である虎関師錬(こかんしれん)は撰述した「一山国師行状」の中に、一寧について以下のように記しました。

 「先生の性格は慈悲に満ちており、やさしいことこの上なかった。…先生はひとり長椅子に坐られ、面会予約を求める必要もなく、新到の者でも遠来の者でも、何ら隔てなく出入りし、人々は自由に参問して教えを請うことができた」

 「…先生に問い質すと、先生は気高く優しく、自ら筆を執り文章で答えておられた。仏教の諸部派のこと、儒家・道家などの諸子百家のこと、民間の細々とした説話のこと、田舎の方言や俗言のこと、何でも自在に湯水のごとく取り出して、たちまち多くの紙面を埋めた」

 一寧は人生の最後に、後宇多上皇に遺表を呈し、遺偈に「思うままに世間を渡り歩き、仏祖も息を飲んで黙ってしまった。矢はすでに弦を離れ、虚空より地に落ちたぞ」と綴り、筆を置いて遷化したそうです。後宇多上皇は一寧の遷化を惜しみ、「宋地にては万人の傑、本朝にては一国の師」と祭文し、「一山国師」の諡号を贈りました。

 一寧は人望が厚く、幅広い学識があり、門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出しました。そして、一寧は朱子の新註を伝え、朱子学の日本での普及に貢献し、能筆家としても知られ、墨蹟の多くが重要文化財指定を受けています。

 生まれ故郷を離れ、元の使者として敵対国の日本にやって来た臨済宗の高僧・一山一寧は、日本に禅宗文化を持ち込み、自らの使命を果たし、1317年10月に71歳で南禅寺にてその生涯を終えました。

 (文・一心)