砂庭式枯山水(龍安寺方丈石庭)(Stephane D'Alu, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 鎌倉時代から室町時代にかけて、大乗仏教の一派である禅宗が中国から日本に伝来し、日本各地に禅寺が建てられました。禅宗の教えは武士や庶民を中心に広がり、禅に基づいた文化芸術、水墨画や詩、作庭などは日本で盛んになり、やがて茶道と俳諧の「わび・さび」の理念の誕生にも繋がりました。

 一、水墨画と枯山水

 水墨画は鎌倉時代に禅宗の移入と共に伝来しました。室町時代になると、京都の相国寺で修行した禅僧である雪舟は、遣明船に同乗し、中国(明)に渡り、中国の各地に訪れ、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究しました。色彩を否定し、枯淡で幽玄な画風を有する水墨画は、画僧たちが座禅のうちに得られた寂静の境地や禅の思想を表現するのに最適でした。雪舟は中国で多くの景観を写生し、彼が描いた風景画は、中国各地に現在も残っています。

 帰国後、雪舟は日本各地を訪れ、『天橋立図』、『四季山水図』など、数多くの作品を残し、日本独自の水墨画風を確立しました。

 水墨画と深く関係があるのは、室町時代に発達した枯山水という作庭です。水を使わずに石と白砂だけで風景を表現する石庭は主に禅宗寺院に造られました。簡素で枯淡でありながら、奥深く雄大な自然を象徴的に表現し、何も見えないものの中に何かを発見するという禅の思想を反映した枯山水は、その後、日本独自の庭園形式として発展し、世界からも注目を集めています。 

 

雪舟筆『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝) 東側より – 雪舟観(パブリック・ドメイン)

 二、    「わび茶」の誕生

 鎌倉建長寺の蘭渓道隆に参禅し、1259年、宋に渡った臨済宗の僧侶・南浦紹明(なんぽしょうみょう)は、日本に初めて茶の湯を持ち込みました。その後、室町時代の僧侶・珠光は禅の要素と茶の湯を昇華させ、日本的趣向を加え、茶道の原型を作りました。珠光は「わび茶」の創始者であり、大徳寺の一休和尚の弟子でした。安土桃山時代になると、千利休は世俗世界の飾りや奢りを捨て、質素で閑寂な境地を重んずるわび茶を完成させました。

 「わび」とは本来、貧しく、失意、落胆の中にあることを表す言葉でしたが、世俗世界への執着を否定する仏教の影響を受け、それを良い意味へと転じ、美的な情趣で捉え返したのです。

 禅寺における喫茶の儀式から始まった茶道は、現在、日本を代表する伝統文化の一つとして世界に知られています。

兼六園の茶室、夕顔亭(Chris Spackman, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 三、    松尾芭蕉と俳諧

 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は「わび」、及び中世で重んじられた「幽玄」を継承し、禅宗や老荘思想の影響を受けつつ、それをより深めて、「さび」を俳諧の理念としました。

 1680年、37歳の芭蕉は精神的に行き詰まり、臨川庵の仏頂禅師に参禅しました。仏頂禅師から、禅と老荘思想について体系的に教授された芭蕉は、荘子の「自我を捨て、名誉をおわず、自然に生きる」という考え方、禅の「無に生きる、無心、無我に生きる」という教えに共鳴し、そのような世界観、人生観に憧れを持つようになりました。

 「さび」も本来、心細さや物悲しさを表す言葉でしたが、「わび」と同様、それ自体が良いものとして捉え返され、美的な情趣を表す言葉となりました。今では「さび」は、自己や世俗世界の無常を寂しく感じ、物事を愛おしむ、静寂で枯淡な境地を表す言葉になっています。

 深い禅の精神を取り入れた俳諧は江戸時代に栄え、松尾芭蕉も後世では、俳聖として世界的にも知られ、日本史上最高の俳諧師の一人となりました。

松尾芭蕉像(葛飾北斎画)(パブリック・ドメイン)

 こうして、禅宗は日本文化の骨格の形成に多大な貢献をし、日本文化の発展に大きな影響を及ぼしているのです。

(文・一心)