(Pixabay CC0 1.0)

 清代においては、裁判官に刑の裁量を認めない絶対的法定刑主義が取られていた。これは裁判官の恣意的な量刑を防止し、全国統一の司法運用により中央集権体制を確立するためであった。一方、完全な罪刑法定主義ではなく、刑法における類推適用もある程度認められていた。

 清代では、最大で七つの審級があった。州・県、府、按察使、督撫、刑部、三法司(刑部、都察院、大理寺)、皇帝である。さらに、事案の決定権はその重要さに応じて異なるレベルの統治機関に属し、決定権を有するレベルの機関に至るまで事案が未決のまま繰り返し覆審を受けていくという(下級機関が事案を審理した後、上級機関が再度その事案を審理しなければならない)必要的覆審制があった。そのため、案件を問わず州・県に提起することが原則であった。

 笞・杖・枷号に相当する事案は「州県自理之案」とされ、終審は州・県であった。一方徒刑以上に相当する事案は州・県では結論を出せず、判決案と被疑者の身柄を府に送ることとなっていた。

 府は文書と被疑者を按察使へと送り、按察使はさらに督撫へと上申した。

 督撫では「人命」以外の罪は「督撫批結之案」と呼ばれ、取り調べの後に被疑者は州・県へと返送された。「人命」の罪及び流刑以上の罪はさらに刑部へと上申された。

 刑部では死刑以外の案件は「咨結之案」とされ、最終判決が下された。死刑の案件はさらに都察院と大理寺に文書が送られ、三法司による会審ののちに皇帝へと上奏された。そして皇帝により審判が下された案件は「題結之案」と呼ばれ、最終審となった。

 判決案が不当とされた場合には「駁」となり下級機関に再審理を行わせた。

 また清代では審判に不服があれば上控することができた。現代の制度との相違として、裁判が終了していなくても提起できること、刑罰が執行された後も提起できること、期間に制限がなく、そのため判決の確定力に乏しいことが挙げられる。

注:
按察使:一つの省の監察・司法を担当する役職である。
督撫:総督や巡撫の総称。一般的に、巡撫が一省程度を管轄したのに対し、総督は複数省の軍民両政を執りしきった。
三法司:明・清代には全国の刑法を担当する刑部、監察を担当する都察院、重大案件を担当する大理寺が合わせて「三法司」と呼ばれた。

(文・黎宜明)