子供にとって根気強く待つことは決して簡単なことではありません。それは大人も同じです。ここでは、根気強さが足りなかったために、もったいない結果になってしまった二つの鐘の物語を紹介したいと思います。
開封の「四十五里の鐘」
開封市の郊外に位置する十方院の庭に、一口の古い銅の鐘が置かれています。大昔からそこに置かれているので、誰も気にかけませんが、次のような古い言い伝えがあるのです。
それは十方院がまだ繁盛している頃の話です。十方院は当初、修行を積んだ徳の高い住職さんが監修する大きな寺院でした。竣工した十方院には、焼香の煙が立ち上がることが絶えず、大勢な信者たちが次々と敬けんに訪れてきました。開封の地での人気ぶりはともかく、十方院の名を慕い、はるばると訪れてくる行脚さんもたくさんいました。
そんな十方院の中には何でもありましたが、お寺にとって欠かすことができない鐘がなかったのです。こんなに立派なお寺になぜ鐘がないでしょう?住職様はどのようなお考えでしょう?と、来訪する人々は誰もが思いましたが、その答えは誰もわかりませんでした。
物好きな人に鐘の事について聞かれたとしても、住職さんはいつものろのろとした口調で「時期尚早ですよ。急ぐことではない」と答えていました。
こうしてしばらく経ってから、住職様はようやく鐘の名匠を招き、鐘を鋳造することになりました。鐘が出来上がった日に、住職さんは開封城内の官吏や地主、名人たちを招き、このように言いました。
「老衲(ろうのう、年をとった僧が自らをさしていう一人称)が今まで、鐘を作らない理由は、良い職人に出会えなかったからです。今、名匠に出会ったから、鐘が完成しました。老衲も宿願を果たし、これからは山に入り、隠居します。今日皆様をここに集めたのは、お別れの会を開こうと思っていたからです。このご縁がつづくのであれば、また皆様にお会いできるでしょう」
「しかし気を付けてほしいことがあります。それは、すぐにこの鐘を鳴らしてはいけません。七日後、老衲が山に入ってから、鐘を鳴らすのです。その時はきっと、鐘の音がどこまでも届くでしょう」
話が終わった住職さんは、手を大きく振って立ち去りました。
しかし、待つことに耐えられない和尚さんたちは、三日も待たずに、鐘を鳴らしました。その時、住職さんは朱仙鎮の町を過ぎたところで、鐘の音を聞きました。朱仙鎮は開封市から45里(約22.5キロメートル)離れているため、十方院の鐘は45里響いたことで「四十五里の鐘」と呼ばれるようになりました。
その四十五里の鐘は、今でも鳴らされると、その音が45里先まで届くと言われています。
昆明の「大板橋の鐘」
昆明市の南の城壁の上に、古い鐘楼が建てられています。その鐘楼は2丈四方(約6平方メートル)しかないが、中には大きな鐘が吊るされていて、そのまわりは人が通るのもギリギリな隙間しかありません。その鐘は、大きな火災が起きた時に警報として鳴らされ、住民の人々は皆避難することができます。平時には、その鐘の音を聞いた人は、すっきりとした気分になり、心が落ち着くと言われます。
あまりに大きくて重いこの鐘は、完成した時に鐘を吊るすための丈夫な横梁がなかなか見つからなかったそうです。職人たちが困っている時に、ある道士が木くずと水を合わせて、横梁を作り、いとも簡単かつ丈夫に鐘を吊るすことができました。
道士はまわりの人に「私が立ち去って三日後からじゃないと、この鐘を鳴らしてはいけません」とだけ話し、立ち去りました。
しかし町の人々は待つことができず、翌朝、鐘を鳴らしました。その時、道士は町から40里(20キロメートル)離れた「大板橋」というところを通ったばかりでした。鐘の音を聞いた道士はため息をつき、「ああ、この鐘の音は、三百里先までも届くはずなのに、なんて嘆かわしい!私の言葉を聞かない凡人たちよ、今その鐘の音は四十里先までしか届かなくなってしまった!」と言いました。
こうして、今でもその鐘を鳴らしても、四十里先の大板橋までは鐘の音が聞こえますが、大板橋から先は聞こえません。そのため、その道士は中国古代の傑出した職人である巧聖先師(公輸盤※)の化身だとも言われます。
※公輸 盤(こうしゅ はん、紀元前507年 – 紀元前444年)は、中国春秋戦国時代の魯の工匠である。姓は姫、氏は公輸、名は盤(般・班とも)。公輸子・公輸班・魯班とも。(ウィキペディアより)
(文・紫悦/翻訳・常夏)