唐代の太宗はかつて大臣に向かってこう直言した。「我多くを語らず」一人の最高の地位にいる皇帝の話は至上命令となるので、敢えて多く話すわけにいかない、という意味だが、どうして太宗はこのような懸念をもつに至ったのであろうか?

 その理由は、太宗の心の中にはいつも天を敬う気持ちと民を愛する心で国を治める理念が備わっていたからである。一言話すたび、一つのことを行うたび、その前に太宗はいつもまず、自分の心に聞いてみる、臣民の望みに背いていないかを。天は高いところにあって、なお地上の人間の意見に耳を傾けておられる。家来であるあらゆる官吏たちも皇帝の一挙一動を注視している。どうして用心深く慎重にならずにいられようか?

 日誌「起居注」の記録係の責任者の杜正論は職務に忠実な官吏であるが、機会を得ては意見を言う。「皇帝が何をなさっても、何を話されても、すべて起居注に記録いたします」、さらに続けると、「もし陛下のお言葉に常理に背くところがあれば、たとえ千年後でも陛下の聖徳は損なわれるばかりでなく、当世の庶民に対してもダメージを与えます。ぜひとも用心深く慎重であっていただきたく存じます。」たとえ一言でもうっかりしたことを言えば、すぐに人に迷惑をかけ、もし歴史書に残ってしまえば、長い年月、後世の人からは評議の対象とされるかもしれない。この諫言を聞いた太宗はとても喜び、杜正論に200反のさまざまな色の絹織物を恩賞として与えた。

 貞観8年(634年)、太宗は側近と、話しをすることについての重要性を語った。「話をすることは、君子にとっての重要な政務である」彼にとっては、言葉は君子の道徳心や品性を表す鍵となるので、絶対に軽々しくいい加減なことを言ってはいけない。

 太宗の説明によれば、「一般庶民は少しでも言い方がまずければ、すぐ覚えられて、嘲笑されることだってある。まして、君主の皇帝であればなおさらではないか? 君主であれば、絶対に不適切なことを言ってはいけない」

隋煬帝像(写真中)唐朝の画家・閻立本が書いた『歴代帝王図』の複製の一部。現在米国ボストン美術館に収納(パブリック・ドメイン)。

 太宗はさらに隋の皇帝の煬帝にまつわる物語を教訓として大臣と意見を交わした。当時、煬帝は甘泉宮に来たばかりの時、甘泉宮の泉水と庭石に魅了された。しかし、蛍のほのかな光があればさらによいと思ったので、部下に命じて、「照明代りに少しばかりの蛍をつかまえて宮中にもって来い。」と言った。官吏は直ちに数千人を派遣して蛍を捕まえさせに行かせた結果、各地方から500ほどの車が運び込まれた。

 些細なことのつもりが、このような状況が起きた原因は煬帝の普段の行いが影響してのことだった。太宗はその後、このようなことが国を滅ぼすのだ、ということを念頭に入れるようになった。当時学者であり政治家だった魏徴はその話を聞いて、「もし皇帝の言行に徳を欠く行いがあっても、古代の人が日食と月食は同じようなものだと考えたとしても、人々は皆信じて、そのように見えるようになる。君主は確かにある程度用心しなければいけない」と直言した。

参考資料:『貞觀政要』(『貞觀政要』は唐太宗の君臣対話が記録された政論史書。古今東西の指導者たちが必読し、唐太宗の国を治める理念と智慧が凝集されている。)

(つづく)

(作者・柳笛/翻訳・夜香木)